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ジェームス・ジョイス著「若い藝術家の肖像」を読んで [読書]



照る日曇る日第319回

アイルランドの貧しい家庭に生まれた本書の主人公スチ-ブン・ディーダラスは、幼い時から厳格な宗教教育を受け、神と共に歩む聖職者の道を選ぶことまで考えましたが、やや長じて宗教団体が経営するカレッジに入るや一転して涜神とまではいかずとも高歌放吟、芸術三昧の世界に邁進します。

われかくして二〇世紀文藝の旗手となれり。めでたし、めでたしという退屈な回顧録か。昨日のガルシア・マルケスの自叙伝に比べるとずいぶん貧弱な内容だなあ、と思って読み終わったのですが、訳者である丸谷才一氏は、「これはそんな生易しい本ではないぞよ」とのたまいます。

まずこの本の「若い藝術家の肖像」という題名からして世界中の学者が、昔からああでもない、こうでもないという議論の種になっていて、これは単なる伝記であるどころか一種の創作的自叙伝であり、本書の主人公スチ-ブン・ディーダラスは、つとにギリシア神話に出てくるダイダロスの息子イカルスに擬せられており、偉大なる作家は、父や教会との大いなる葛藤を経て、ある若者が、それとは知らずに天高く飛翔しようとするところを象徴的に描いたのだそうです。せれどもこの若者は太陽の熱で翼を焼かれて墜落するという不幸な運命をまぬかれ、めでたく本書の続編である「ユリシーズ」に副主人公として登場することになるのです。


ああ無知とは恐ろしい。さすがインテリゲンチャンのご高説はひとあじもふた味も違うなあと思いつつ、ざっと再読してみたのですが、そんなことは枝葉末節もいいところ。いつの時代も、高踏的かつ衒学的な暇人の能書きはいっさい物事の本質とは無関係なのです。やはり本書はジェームス・ジョイスその人の前半生そのものの叙述ではないとしても、本物の芸術家になろうとしたある若者の精神の最深部の履歴の実録をありのままにつづった命懸けのドキュメントに他なりません。

とりわけ読者の心に衝撃を与えるのは、若き魂に激しく迫る神のあららかな声でしょう。七つの大罪を犯して地獄に落とされた罪びとに科せられ、未来永劫続く肉体的精神的苦痛の描写の微に入り細にわたる凄まじさは、ダンテの「神曲」をしのぐほどリアルで痛苦なものがあり、もしもそれが単なる威嚇や恫喝ではなく「本当のほんと」のことならば、不信心なこの私も即入信せねばならぬと思わせるほどの迫力です。

当時この若き芸術家がどれほど真剣に神と信仰の問題と格闘していたかをまざまざと示すこの本は、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」と並ぶ不朽の青春の書と評すべきでしょう。

♪本物のピカソを飾る小学館ルオーを飾る新潮社 茫洋

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