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石原深予著「尾崎翠の詩と病理」を読んで [読書]

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照る日曇る日第847回

 1896年に鳥取に生まれ、1971年に亡くなった“伝説の”閨秀作家、尾崎翠の本格的な研究書を、不思議な縁あって手に取ることができました。

 まずは「第七官界彷徨」で使われている「第七官」という言葉の歴史的な用例の発掘とその意味づけから始まり、次いでその「第七官界彷徨」論、「歩行」論、「こぼろぎ嬢」論、「地下室アントンの一夜」論と、翠の代表作4点をその「詩」と「病理」をキーワードに解読する著者の研究姿勢は、何よりも尾崎翠への敬愛と彼女の創造の秘密に肉薄しようとするアガサ・クリスティ的情熱に満ち溢れていて、読む者の心を熱くします。

 思うに、序章における「第六官(感)」とか「第七官(感)」などの用語を探し出すためには、古今東西の文献を渉猟しなければならず、そのためには膨大な時間と手間暇をかけて大量の書物や記録、人物、新聞雑誌にあたる必要があったことでしょう。  

 しかし著者は、もちろんそんなシジフォス的営為の労苦は、噯にも出しません。
 若き日に翠作品と運命的な出会いをした著者が、翠を覆う不可思議なヴェールを剥ぎとり、いつの日か真正の尾崎翠と再会する日が来ること、またこの長い寄り道こそが著者の人生を最高に豊かなものにしてくれることを、著者は確信しているようです。

 ともかく、汗牛充棟ただならぬ資料の山に分け入り、的確に博引傍証しつつ、創見に彩られた独自の尾崎翠像を彫刻してゆく著者の尋常ならざる力技には、ただただ圧倒されるばかりです。

 そのエネルギッシュな知的営為は本論と終章を書き終えてもとどまるところを知らず、末尾の「参考」に添えられた翠の新発見作品や写真、書簡、同時代人の資料はじつに貴重なものばかりで、今後の尾崎翠研究は、本書の存在抜きには到底考えられないでしょう。

 それにしても前半生であれほど文名を上げ、“悲しきダダ”として鮮烈な印象を江湖に残した尾崎翠は、なぜその長い後半生においてほとんど作品を発表することなく74歳で郷里で没したのでしょうか。

 ここで思い出されるのは21歳にして詩業を投げうち、アフリカの不毛の砂漠に奴隷商人として姿を消したアルチュール・ランボオの存在です。

 この前代未聞の恐るべき“見者”が、凡人とは異なるある種の「病理」を通じて、アデン、アラビアの不毛の地で詩と生活が一体となった「散文詩的活動」を継続していたように、漂泊の行商人、尾崎翠もまた鳥取県岩美の蒲生峠を行き過ぎながら、世にも不思議な散文詩を紡いでいたのではないでしょうか。

 著者の次なる研究への期待は、いやがうえにも高まります。


 きょうもまた一人の老女が歌ってる鳥取岩美蒲生峠を下る女人ランボオ 蝶人

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中公新社偽決定版「谷崎潤一郎全集第6巻」を読んで [読書]



照る日曇る日第846回

本巻では1918年から19年にIMG_9603.JPGかけて出版された作品を集めている。

内容は、真情あふるる名短編「母を恋ふる記」を含む「小さな王国」、小説と戯曲の融合を図った意欲作「呪われた戯曲」、臆面もなく足フェチを告白した「富美子の足」、中国人の令嬢のオフェーリアのような死体の超絶的な美を幻想的に描いた名品「西湖の月」を含む「近代情痴集」、オスカー・ワイルドの翻訳「ウヰンダーミヤ夫人の扇」、あれやこれやの随筆を集めた「自画像」、ポオの名作の「アツシヤア家の覆滅」の部分訳を含む単行本未収録作品、中国旅行記などを含む雑纂とまことに盛りだくさんであるが、とりわけ興味深いのは最後にとっておきのデザートのように供された「クラリモンド」という小説の翻訳である。

編者によれば、これはフランスの詩人テオフィル・・ゴーティエの小説のラフカディオ・ハーンによる英訳が原本で、これをまず芥川龍之介が翻訳し、それを谷崎がフランス語の原文を参照しつつ修正加筆したものらしいが、絶世の美女クラリモンドに恋した修行僧の宿命の恋とその悲劇的な結末を、当時の本邦を代表する3傑によるめざましい知的感性的コラボレーションの足跡を、わくわくどきどきしながら追体験できる稀有な作物といえよう。

瑣事ながら私のこの原稿は、いつもと違って、行頭を半角下げずにそのまま書き出している。

これは谷崎の顰に倣ったのだが、最近デジタル媒体における文章はいつのまにかこの谷崎流に従っているようだ。もしかすると文豪は21世紀の日本語表記の先駆者なのかもしれない。


  万巻の書物に埋もれし陋屋でロカンタンは「サ行」読み継ぐ 蝶人

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岩波文庫版『石垣りん詩集』を読んで~これでも詩かよ第167番 [読書]

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ある晴れた日に第361回&照る日曇る日第845回


詩集を贈呈された者は、けっして古本屋に売ってはならない。
贈呈した詩人が、回り回って手にすることがあるからだ。
のみならず、それが詩に書かれて、一生物笑いの種にされることもあるからだ。

岩波文庫版の『石垣りん詩集』のなかに、『へんなオルゴール』というへんな詩がある。
「歴程」夏のセミナーに出席した詩人が、見知らぬ紳士からサインを求められる。
それは『表札など』という彼女の代表作のひとつだった。

「サインせよ とはかたじけない」*と喜んだ詩人だったが、開いた扉に一枚の名刺。
見れば「丸山薫様 石垣りん」と自分の筆で書いてある。
敬愛する偉大な詩人に送った詩集が、古本屋に並んでいたというのである。

「ひとりの紳士が1冊の本をひらくと
 丸山薫さま 石垣りんです。
 と明るいうたがひびき出す。」*

「どうしてうらんだり かなしんだりいたしましょう。
 売って下さったのですか 無理もないと
 それゆえになお忘れ難くなった詩人よ。」*

などと無理やり陽気にふるまおうとするものの、
そのとき彼女のはらわたは、煮えくりかえっていたに違いない。
だからこの詩を書いたのだ。

東京品川の糞尿臭い十坪の借家に、祖父と父と義母と二人の弟と住み続け、
たった一人の女の二本の細腕で、六人の暮しを支え続けた石垣りんは、
毎日のように押し寄せてくる詩歌集を、ただの一冊も捨てなかったのだろう。

詩集を贈呈された者は、けっして古本屋に売ってはならない。
贈呈した詩人が、回り回って手にすることがあるからだ。
のみならず、それが詩に書かれて、一生物笑いの種にされることもあるからだ。

             *石垣りん『へんなオルゴール』より引用


 町内の知人の家に門ごとに皇帝ダリアを植えて逝きし老人 蝶人

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五味文彦著シリーズ日本中世史①「中世社会のはじまり」を読んで [読書]

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照る日曇る日第844回

 現代日本の核を作った中世の歴史を3分冊で見直そうとする試みの第1回です。

 中世史を100年ごとにぶった切り、1)1068年の御三条天皇即位(院政時代)、2)1167年の平清盛太政大臣就任(武家政権)、3)1268年の蒙古国書到来(東アジア世界の流動)、4)1368年の応安の半済レ令(公武一統)の4期に分けて、それぞれに「家」、「身体」「職能」「型」という「思潮」を見出して特徴づけるという手法はきわめて斬新で、なんだか初めて中世という時代に向き合ったような気がしました。

 第3章では荘園の免除特権を否定して国の支配を強めようとする受領・国衙と、朝廷・院からの免除徒権を獲得して荘園支配を強めようとする荘園側の衝突が生々しく描かれていますが、その後勃興した武士階級は、その間隙を守護・地頭として介入することによって、独自の政治的経済的権益を確保していったのです。

 本書には「徒然草」の著者、吉田兼好も登場します。

 彼は14世紀の初頭に鎌倉に下って金沢(今の金沢八景、六浦付近)に滞在していたようですが、朝夷奈峠を上り下りして鎌倉に入り、119段の「鎌倉の海に鰹という魚は」というトピックスなどを観察したあの兼好法師が、私の自宅の近所にある朝夷奈峠を何度も行き来していたと聞くと、にわかに「徒然草」の世界が身近に思えてきたことでした。


「正論だね」と上司が称えしわが提言その後いったいどうなったのか 蝶人

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河出版「日本文学全集03」を読んで [読書]

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照る日曇る日第843回

「竹取物語」の現代語訳を森見美山彦、「伊勢物語」を川上弘美、「堤中納言物語」を中島京子、「土左日記」を堀江敏幸、「更級日記」を江國香織がそれぞれ担当している。

森見の「竹取物語」と江國の「更級日記」は比較的オーソドックスな置き換えで素直に鑑賞できる。川上弘美の「伊勢物語」は切れ味鋭い散文詩のようで見事。

30段の出てくる「逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ」を「一瞬 恨みは 永遠」とやっつけるなんて他の誰に出来るだろう。

中島京子は「堤中納言物語」の和歌すべてを現代短歌にほんやくするという離れ業を見せてくれる。

例えば、「おぼつかな憂き世そむくは誰とだに知らずながらも濡るる袖かな」を「なぜかしら 出家なさるはどなたかを知らぬながらももらい泣きする」と、鮮やかにまとめてしまう。 

パチパチ! これがどれほど大変か、君も一度やってみればよく分かるだろう。

が、堀江敏幸の土佐ならぬ「土左日記」は藤原定家による外題付きの写本に拠っていて、「土佐日記」のかな文字と紀貫之になりきった堀江の仮名漢字混淆文の「土左日記」とが入り混じっているので、読みにくいばかりか何が何やらわからぬ判じ物になっている。

 堀江は、貫之の内面を想像してその空想的な文章を前段に置き、本文は定家本の字面に似た文字列を並べ、そこに貫之が適宜自注を施していくという一種の「メタフクション」を目指したとかほざいているのだが、んなこたあ誰も頼んじゃあいないぜ。

 どうして森見選手のように「原文にない事柄はできるだけ補わない」やり方で淡々と現代語訳しなかったのだろう。それがいやなら本巻とは別の書物でそういう試みをすれば良かったし、こういう勝手な振る舞いをまかり通らせている編者池澤夏樹にも問題なしとしない。


     早大の学費学館半世紀絶叫はせず黙して偲ばむ 蝶人

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「谷崎潤一郎全集第4巻」を読んで [読書]

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照る日曇る日第842回

 この巻では「鬼の面」「人魚の嘆き」「異端者の悲しみ」などちょうど夏目漱石が「明暗」を書きながら斃れた時期の作品を収めていますが、当たり前のことながら、「即天去私」などと言われた最晩年のそれと比べてなんとその作風が違うことよと驚かずにはいれれません。

 「人魚の嘆き」は泉鏡花の向こうを張ったような谷崎独特の幻想譚ですが、「鬼の面」とか「異端者の悲しみ」の世界はお得意の「悪魔主義」などとは全然異なります。

 これらは日本橋の貧しい町家の暗がりで呻吟していた著者の青春時代の暗くて絶望的な生活と内面をリアルに描いた一種の暗黒社会小説ないし波乱万丈のシュトルムウントドランク自伝でして、松原岩五郎の「最暗黒の東京」と社会主義的リアリズムを足して2で割ったような、おどろおどろ陰々滅滅の私小説なのです。

 ところがまったき非政治的小説であるにもかかわらず、これに内務省警保局が再三にわたってクレームをつけているから恐ろしい。後の「源氏物語」や「細雪」弾圧事件より遥か以前の話です。

 恐らくは参議大久保利通の考えで1876年明治9年に内務省の内局として誕生したこの組織は、全国に諜報ネットワークを敷いて労働運動や反政府運動を取り締まったのですが、この時期、谷崎のどうということのない作品についても徹底的にダメを出し、現行憲法が保障する表現の自由をふみにじり、恐るべき言論弾圧を行っていたのです。

 ちなみに「異端者の悲しみ」の「はしがき」を読むと、「此の原稿の発表に先だち繁雑なる公務の余暇にわざわざ検閲の労を取られ、加ふるに精細なる評論までも書き添えて下すつた永田警保局長の好意を、予は深く深く感謝するものである」と書かれているのですが、この時代に警察権力の触手がここまで及び、当時の若手流行作家が、ここまで無抵抗にその権威と圧制に奴隷のように屈服している姿には慄然たらざるをえません。

 美女のみならず権力者の前に額ずきて膝を突きたり谷崎潤一郎 蝶人

 

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小川洋子著「琥珀のまたたき」を読んで [読書]

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照る日曇る日第841回

恐ろしい悪夢と珠玉のファンタジーが表裏一体になった長い散文詩のような、不気味でリアルなグリムの童話のような、これまで誰も夢見ることがなかった比類なく美しい夢のような、実際に母親と3人のきょうだいの身の上にどこかの国で起こった人知れぬ悲劇のドキュメントのような、科学と芸術が結婚した披露宴のような、1枚のページをめくって閉じるその瞬間に姿を現す小さな小さな妖精のような、あらゆる物語の優しい母親のような、この世にありそうで、なさそうで、やっぱりありそうなお伽噺のような、読むほうはたやすいけれど語り手の方はすごく大変そうな、森の中を光と風と人間と動物たちが通り過ぎる、そんな小説でした。まる。

西暦は2016年平成は28年か また1年かけて新しき年号に馴染んでゆくべし 蝶人

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ドナルド・キーン著作集第13巻「明治天皇〔中〕」を読んで [読書]

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照る日曇る日第840回

明治8年の「江華島事件と東奥巡幸」から明治28年の日清戦争の勝利までを、「明治天皇紀」をベースにしながら、内外の様々な文献を自在に引用しつつ、明治という時代の政治経済社会文明人間模様について極力冷静客観的な音吐によるキーン史観で物語っている。

特筆すべきは、そんな時代史でありながら筆致は無味乾燥に陥ることなく、天皇自身や皇后、宮中の側近、伊藤博文をはじめとする木戸、岩倉、三条、大久保、西郷、大隈、板垣、黒田、井上、陸奥、山県などの元維新活動家の活動が活写されていることで、天皇が時々政務に倦んだ折に最新の洋装で陸海軍の演習に嬉々として臨んだ昭憲皇太后のイメージは、さながら女帝推古のごとく鮮烈である。

当時の日本がどのようにして台湾を手に入れ、朝鮮を保護すると称して植民地化していったか、またその延長線上の「腰撓めの状態」でずるずると日清戦争に突入していったかは、この本を読めば手に取るように分かるが、思えば清国があれほど不用意に連戦連敗したことが、その後の日本の帝国主義的侵略の道を切り開いてしまったともいえよう。

けれども日清戦争における我が軍の旅順虐殺事件の暴虐ぶりは、その後の南京虐殺の先蹤ともいいうる戦慄すべきもので、個々には忠良な民草が、組織された暴力組織の指揮下では、野獣のごとき集団殺戮行為の先兵となるDNAに裏打ちされていることを雄弁に物語っている。

興味深いのは、あれほど屈辱的な治外法権の条約を改正を巡って国論が分裂したことで、陸奥は国是に反すると知りつつも外国人恐怖症におびえる衆議院の現行条約励行派と長年にわたって戦い続けなければならなかった。

真の国益とは何か、を断じることは、昔も今も難しいものである。


 選ばれた62人の金持ちが36億人の貧乏人の資産と同じお金を持っている 蝶人

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林望の「謹訳平家物語二」を読んで [読書]

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照る日曇る日第839回

 それにしても「平家にあらずんば人にあらず」とまで称された清盛専制独裁政治が、なぜあれほどガタガタと崩壊してしまったのだろうか? 

 直接の要因としては、継母池禅尼の命乞いに応じて清盛が、頼朝を生かしてしまったことだろうが、14歳から北条の保護観察下にあったその頼朝自身は、以来20年が過ぎても平家に反逆しようという野望は微塵も懐いてはいなかった。

 それを無理やり尻を叩いて決起させたのはかの有名な文覚上人で、このちょっと気狂いじみた素っ頓狂な活動家のオルグなかりせば、ついに源氏による鎌倉幕府の開府は永劫なかっただろう。

 そしてその遠因をなした後白河院の皇子、高倉宮の謀反の直接の契機も、もう一人の気狂い荒武者、源三位頼政によるアブノーマルなアジテイションであり、この悪坊主の強烈オルグなかりせば、平家打倒のいささか早すぎたのろしも印璽も、かくも速やかに全国に出回ることはなかっただろう。

 昔流のマルクス主義者はなんと理屈づけるか知らないが、今も昔も革命はすぐれて人間的行為の突然変異的所産であり、その全運動を最初期において駆動するのは、無謀とも狂気とも思われる特定の運動家の突発的暴発と自己投企に他ならない。

 短兵急に極論を吐けば、源氏革命は源三位頼政と文覚上人によって連続的に一点突破され、それ以降の全面展開をもたらしたのである。


 物を売ることにまつわるさまざまな手立てはつねにいささか物悲しきかな 蝶人


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村上春樹著「ラオスにいったい何があるというんですか?」を読んで [読書]

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照る日曇る日第838回

 ボストン、アイスランド、2か所のポートランド、ミコノス島、。NY、フィンランド、ルアンプラバン、トスカナ、熊本などを巡るムラカミ選手。

 小説と違ってかなりリラックスして書かれた世界あちこち旅行の感想文集ずら。

 フィンランドのヘルシンキ市内にあるカウリマス監督兄弟が経営する名物バー(モットーは「冷たいサービスと温かいビール」)「カフェ・モスクワ」を訪れたときのいかにもカウリマス的な(つまり店には奇妙なカップルがいるだけでいつまで経っても店員は現われない)結末が面白い。


 ラオスのホテルで呪術師たちが演奏するガムラン音楽のマカ不思議さ、魔術性の描写も音楽に強いムラカミ選手らしいものがあった。

 熊本における漱石最後の下宿の訪問記と写真も良かったが、スタイリストの吉本由美選手はどうして郷里の熊本に戻ったのかしら。妙に気になります。

 それにしてもいかにも売れそうなエグいタイトルをつけるもんだ。


  大阪の心斎橋の大丸の無人の売り場で服売りしあの頃 蝶人


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