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鎌倉時代のテロルの現場を歩く その4 三浦泰村とその一族の「宝治合戦」 [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第182回&鎌倉ちょっと不思議な物語第344回


 その合戦は、1247年宝治元年に起こったので、「宝治合戦」と呼ばれている。三浦氏は代々源氏に仕え、頼朝の挙兵時にも大きな役割を果たした御家人中の最大最強勢力であった。

 その後鎌倉から追却された前将軍九条頼経を中心とする反執権勢力に接近した三浦泰村は、時の執権北条時頼から危険視され、さまざまな政治的策動を仕掛けられていた。

 宝治元年6月5日、時頼の外祖父で三浦氏の排除を狙う安達景盛らが突如三浦泰村邸を襲撃し、これに時頼も加担したため鎌倉幕府の中心部で大合戦の火蓋が切って落とされた。

 両軍は現在の大学前バス停付近の筋替橋辺りで激戦を繰り広げたが、戦況は徐々に不意を打たれた三浦勢に不利となり、泰村らは頼朝が祀られている法華堂(現在の頼朝の墓付近)に籠って防戦に努めたが武運つたなく、一族の500名余りが自刃して果てたという。

 大倉幕府を一望する法華堂跡のやぐらには、恨みを呑んで自刃した三浦一族を祀る五輪塔が遺されているが、その小ささと粗末さがいかにも哀れである。

 この戦いは安達景盛が主導して時頼を巻き込んだ形になったが、宿敵三浦氏を滅亡させて後顧の憂いを絶ったはずの安達家は、景盛の孫の泰盛の時代になって弘安8年1285年の霜月騒動で全滅してしまい、いたずらに北条家に名をなさしめる結果となった。

 「宝治合戦」によって三浦氏を滅亡させた北条氏は、将軍側近勢力を一掃し、ここに合議制の執権政治が終焉して北条得宗家による「安倍」専制体制が確立するのである。
 
 以上はNPO法人鎌倉ガイド協会の資料をもとに一部小生が改変しつつ記述いたしました。

  戦争が近付いているんじゃない我われがどんどん戦争に近付いている 蝶人

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