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鎌倉文学館で「源氏物語展」をみる [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第183回&鎌倉ちょっと不思議な物語第345回


 初夏のバラの見ごろは終わってしまいましたが、長谷の鎌倉文学館では来る7月5日まで「スーパーストーリ源氏物語特別展」が開催されています。

 鎌倉と源氏物語なんてあんまり関係がないのではないかと勝手に考えていたのですが、とんでもない。源氏物語の原本のひとつである「河内本」はここ鎌倉で編まれたそうです。

 源氏物語の代表的な写本には、いずれも平安時代末期から鎌倉時代のはじめにかけて編まれた藤原定家の「青表紙本」と源光行・親行親子(2人とも河内守だった)の「河内本」の2種類が存在していて、どちらもそれぞれの特色を備えているそうですが、鎌倉時代までは「河内本」が圧倒的に優勢だったそうです。

 会場には与謝野晶子の原稿などが並べられていましたが、鎌倉在住の川端康成がどうして彼の翻訳を遺してくれなかったのかと惜しまれてなりません。

 幸い2017年からは若手の角田光代選手の渾身の新訳が登場するそうですから、いまから楽しみなことです。


 賛成はしないが反対もしなかった人々が巻き込まれてゆく戦争 蝶人

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鎌倉時代のテロルの現場を歩く その4 三浦泰村とその一族の「宝治合戦」 [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第182回&鎌倉ちょっと不思議な物語第344回


 その合戦は、1247年宝治元年に起こったので、「宝治合戦」と呼ばれている。三浦氏は代々源氏に仕え、頼朝の挙兵時にも大きな役割を果たした御家人中の最大最強勢力であった。

 その後鎌倉から追却された前将軍九条頼経を中心とする反執権勢力に接近した三浦泰村は、時の執権北条時頼から危険視され、さまざまな政治的策動を仕掛けられていた。

 宝治元年6月5日、時頼の外祖父で三浦氏の排除を狙う安達景盛らが突如三浦泰村邸を襲撃し、これに時頼も加担したため鎌倉幕府の中心部で大合戦の火蓋が切って落とされた。

 両軍は現在の大学前バス停付近の筋替橋辺りで激戦を繰り広げたが、戦況は徐々に不意を打たれた三浦勢に不利となり、泰村らは頼朝が祀られている法華堂(現在の頼朝の墓付近)に籠って防戦に努めたが武運つたなく、一族の500名余りが自刃して果てたという。

 大倉幕府を一望する法華堂跡のやぐらには、恨みを呑んで自刃した三浦一族を祀る五輪塔が遺されているが、その小ささと粗末さがいかにも哀れである。

 この戦いは安達景盛が主導して時頼を巻き込んだ形になったが、宿敵三浦氏を滅亡させて後顧の憂いを絶ったはずの安達家は、景盛の孫の泰盛の時代になって弘安8年1285年の霜月騒動で全滅してしまい、いたずらに北条家に名をなさしめる結果となった。

 「宝治合戦」によって三浦氏を滅亡させた北条氏は、将軍側近勢力を一掃し、ここに合議制の執権政治が終焉して北条得宗家による「安倍」専制体制が確立するのである。
 
 以上はNPO法人鎌倉ガイド協会の資料をもとに一部小生が改変しつつ記述いたしました。

  戦争が近付いているんじゃない我われがどんどん戦争に近付いている 蝶人

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鎌倉時代のテロルの現場を歩く その3 和田義盛とその一族の反乱 [鎌倉ガイド]



茫洋物見遊山記第181回&鎌倉ちょっと不思議な物語第343回


 前述の「畠山重忠の乱」の8年後に起こったのが、「和田合戦」である。

 和田義盛は頼朝の挙兵の時から従い、鎌倉幕府の成立に大きく貢献し、幕府の侍所初代別当(長官)になるが、北条氏と対立。建暦3年1213年2月、一族の中から三人が陰謀の疑いで検挙されてしまう。

 この事件で面目をつぶされた義盛は、ずるがしこい北条義時の再三の挑発をこらえきれず、5月2日軍勢を率いて決起し、幕府軍を襲った。

 鎌倉市内を巻き込んだ合戦は和田勢に有利に展開したが、あろうことか和田の本家にあたる三浦義村が、血判状まで交わしていたにもかかわらず北条方に裏切り、武運つたなく義盛は敗死し、その一族も滅亡した。

 この合戦では、鎌倉十橋のひとつ琵琶橋付近で激しい市街戦が展開されたが、明治二十五年、江ノ電和田塚駅の傍らにこの合戦のときのものと思われる大量の人骨が出て来たので、この地に「和田一族戦没地」の碑が建てられた。

 義盛という人はお人好しで、大男総身に知恵が廻りかねるところがあったので、その性格の単純さ、愚直さを老獪な義時に利用され、陰険な謀略に嵌ってしまったといえよう。

 和田氏滅亡後、北条義時は念願の侍所別当を手に入れ、政所別当と併せて専制政治を恣にするようになった。

 以上はNPO法人鎌倉ガイド協会の資料をもとに一部小生が改変しつつ記述いたしました。また前回の「畠山重忠の乱」の中で一部「和田合戦」の記述が混入していたことをお詫びいたします。


  ウラナミアカシジミを今年初めて見ました2015年5月24日午前9時 蝶人

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鎌倉時代のテロルの現場を歩く その2 畠山重忠・重保追討事件 [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第180 回&鎌倉ちょっと不思議な物語第342回

 畠山重忠は、源頼朝の挙兵に際してはじめは敵対するが、のちに臣従して武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄は「東国武士の鑑」と称された。

 政略結婚させられた木曽義仲の息子を暗殺されたときに大病を患った頼朝と政子の長女大姫を、自宅に引き取って療養させたのも畠山重忠で、そのことは大倉幕府の南御門、現在鶴岡八幡宮の東側の守衛口の前に建つ石碑にも記されている。

 重忠はかねてから北条時政の後妻牧の方の女婿平賀朝雅と軍事支配権をめぐって対立していたが、元久元年1204年、重忠の嫡男重保は、たまたま酒席で朝雅と口論になり、これを根に持った朝雅と牧の方が時政に「畠山親子に謀反の疑いあり」と讒言した。

 年下の後妻を溺愛する時政がこれを真に受けて、北条義時を総大将とする討伐軍が重忠を武蔵国二俣川、重保を鎌倉で謀殺した。畠山親子にすれば文字通り寝耳に水で、北条一族は安倍内閣と同様こういう卑劣な暴挙を行ったのである。

 この合戦では、鎌倉十橋のひとつ琵琶橋付近で激しい市街戦が展開されたが、明治二十五年、江ノ電和田塚駅の傍らにこの合戦のときのものと思われる大量の人骨が出て来たので、この地に「和田一族戦没地」の碑が建てられた。

 また現在鎌倉第一小学校の前には立派な宝篋印塔が立っているが、これはアホバカ北条のいいなりになっておっとり刀で馳せ参じた三浦義村によって武運つたなく討ち取られた畠山重保の墓と伝えられる。

 畠山一族の若武者たちは北条・三浦軍と戦いながら由比ヶ浜辺までじりじりと南下し、その多くがこの海岸で恨みを呑んで戦死したが、わが敬愛する歴史学者故小丸俊雄氏の名著「鎌倉物語」を紐解くと、氏が砂浜を散策中に、彼らの大臼歯と思われる美しい歯が陽光にキラリと輝く挿話が紹介されていて涙と感動を誘う。

 若く妖艶な後妻の色香に溺れて、何の罪科もない立派な御家人を文字通りだまし討ちにした時政は、これによって年来の野望であった武蔵国と侍所司の最高権力者である別当の地位を略奪したのであったが、その後政子と義時から三大将軍実朝に謀反を企てたとして謀られ失脚するのである。

 以上はNPO法人鎌倉ガイド協会の資料をもとに一部小生が改変しつつ記述いたしました。


   由比ヶ浜の砂の下に昏々と眠り続ける若武者の歯よ 蝶人

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鎌倉時代のテロルの現場を歩く その1 比企能員謀殺事件 [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第179 回&鎌倉ちょっと不思議な物語第341回

 比企能員(よしかず)は源頼朝の乳母比企尼の養子で、その縁で頼朝の信任が厚かった。
頼朝の嫡男頼家が生まれると、彼の妻がその乳母、能員も乳母父となり、あまつさえ能員の娘若狭局は、頼家の側室となって嫡男一幡を産んだので、大きな権力をもつようになった。

 これに大きな危機感を懐いたのは頼家の母北条政子とその父時政である。時政は、建仁3年1203年9月2日、能員を彼の名越の邸宅に仏事にことよせて招き、いきなり謀殺してしまった。

 時政と示し合わせた尼将軍政子は、これは謀反であると称して比企氏討伐の命を下し、北条義時、泰時以下多くの軍勢が比企氏の館を取り囲んで日火を放ったので、頼家の妻若狭局はとその子一幡も死んでしまった。

 その後頼家は時政を討とうとしたのだが、和田義盛の裏切りによって成功せず、母政子によって出家させられて伊豆の修善寺に送られ、時政の刺客によって暗殺されてしまった。

 比企氏を滅ぼした北条氏は頼朝の次男実朝を3代将軍に就け、時政がその執権となったが、これら一連のクーデターほど北条一族の悪辣非道を雄弁に物語るものはないだろう。

 比企一族の屋敷跡には能員の末子比企能本によってここ比企が谷に日蓮宗長興山妙本寺が建てられ、祖師堂の右手にある四基の五輪塔は一族の供養塔であり、手水舎の脇の五輪塔は6歳で死んだ一幡の袖を祀る「一幡の袖塚」である。

 乱の最中、若狭局は家宝を抱えて井戸に飛び込み自害したと伝えられるが、比企が谷の一角には、その57年後の文応元年1260年、恨みを遺して死んだ若狭局の霊が執権北条政村の娘にとり憑き、娘が蛇のような狂態をみせるようになったので、若狭局を蛇苦止明神として祀る政村が建てた蛇苦止堂がある。

 若狭局はこの御堂の近くにある井戸に飛び込んだのではないだろうか?

 以上はNPO法人鎌倉ガイド協会の資料をもとに一部小生が改変しつつ記述いたしました。

   鎌倉の御成通りに太鼓屋できたドデスカデンドデスカデンデン 蝶人

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鎌倉の廃寺、蓮花寺跡を訪ねて [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第177回&鎌倉ちょっと不思議な物語第339回

 鎌倉市役所を越えて隧道の先を100メートルほど歩いた右側に昭和九年(1934)三月 に鎌倉町青年団が建てた石碑が立っている。

そこには、「蓮華寺は仁治元年(1240)北条常時の創元にかかり 僧良忠を開山とせしが 寛元元年(1243)之を材木座に遷し 寺号を光明寺と改めし由伝へらる 又一説に蓮華寺は経時の菩提の為 建長三年(1251)北条時頼之を建立し 後弘安二年(1279)の頃  武州へ遷せりともいふ 此谷を佐介ヶ谷(さすけがやつ)と唱ふ」

 とその来歴が刻まれている。

 もともとこの石碑は、蓮華寺跡と思われる松が谷内(登記所西側谷戸)に建てられたのだが、藤沢-鎌倉線の開通に伴っていまの地点に移された。遺跡はこの石碑からかなりへだたった場所にあることになるが、いまその場所を特定することはできない。

 されど私が愛読している貫達人著「鎌倉廃寺事典」を調べても、この蓮華寺に関する記述がないのは不思議である。


 寒くなれば冷たい暖かくなれば熱い風が出るそんなエアコンと暮らしています 蝶人


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佐助稲荷神社と銭洗弁財天を訪ねて [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第176回&鎌倉ちょっと不思議な物語第338回


 源頼朝が伊豆に配流されていた折に翁の姿を借りた「隠れ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、平氏への挙兵を勧めたという故事があります。

 その託宣に従った頼朝が見事に念願を果たしたあとで、「隠れ里」と呼ばれるこの地に祠を見つけたので畠山重忠に命じて建立させたのがこの神社だそうです。

 頼朝は佐殿と呼ばれていましたが、「隠れ里の稲荷」はその佐殿を助けたので「佐助稲荷」の名前がつけられたというのは出来過ぎのような気もしますが、この近所に住んでいた井上ひさしが「ムサシ」で私の祖先の佐々木小次郎と宮本武蔵をこの神社の境内で再戦させたのはむべなるかなという気が致します。

 その佐助稲荷神社のすぐ近くにあるのが「銭洗弁財天宇賀福神社」です。文治元年1185年、壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させた頼朝の夢枕に宇賀福神が立ち、「西北の仙境に湧き出している霊水で神仏を祀れば人心は治まる」というお告げがありました。

 そのお告げ通りに泉があったので、頼朝は岩窟を掘らせて宇賀福神を祀ったのがこの神社の起源と伝えられています。

 その後執権北条時頼の時代になって幸運や財力の神とされる弁財天の信者たちがこの聖水で金銭を洗うようになったのがいまの奇妙な風習のはじまりというわけです。

 以上、吉田茂穂「鎌倉の神社」などから引用しました。


ある作家の奥さんは銭洗弁天で夫の原稿用紙を洗ったと永井龍男いうさてその後いかがなりしや 蝶人


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鎌倉十二所を歩く その8 御坊ケ谷の巻 [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第175回&鎌倉ちょっと不思議な物語第337回


 御坊ケ谷は十二所神社の北側に広がる谷戸で、路は吉沢川に沿って北上している。

 吉沢川には御坊橋が架かっていて、谷戸の奥には「月輪寺」という寺があり、さらにその先の番場谷には北条高時の首やぐらとも伝えられる「お塔の窪」と呼ばれるやぐらがある。

「お塔の窪」は市の指定史跡で、やぐら内には籾塔型の古式の宝篋印塔があるそうだが、私は見たことがない。おそらく私の息子は遊び仲間のヒロやマサと一緒にこの謎の傾斜地を探検したことだろう。

「月輪寺」の場所も不明だが、もしかすると私の息子の遊び仲間だった高木君の実家がその旧蹟ではないだろうか。その一画にはかつて有名な歴史家の小丸俊雄さんの寓居もあった。

「月輪寺」を創建したのは鎌倉幕府の第四代執権の北条経時で、鶴岡八幡宮寺の供僧が別当を務め、鎌倉御所の護持僧が住持したと伝えられているからかなり格式の高い寺院であったと思われる。

 番場谷の「お塔の窪」の反対側には寺院跡と思われる谷戸が現存するが、(最近ロッジハウスが建った)私はここが「月輪寺」の別坊、あるいは遍照院ではないかと考えている。

「月輪寺」のペアとなる「日輪寺」は北条高時の寺号なので、もしかするとこの近くにあったかもしれないが、「十二所地誌」をみるとこのシリーズの第三回で紹介した鑪ケ谷にあったと推定されているがつまびらかではない。


  斉藤斎藤の「NHK短歌」終りぬこれだけは受信料払う値打あったな 蝶人


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鎌倉冬柏山房を歩いた後で、鎌倉文学館「冬柏山房に集まった文人たち」展をみて [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第174回&鎌倉ちょっと不思議な物語第336回

冬柏山房というのは横浜の名庭園「三渓園」のオーナーであった原三渓の下で働いていた実業家、内山英保(明治元年~昭和二十年)が鎌倉市役所近くの千葉が谷に設けた邸宅で、「冬柏」とは椿の別名とされています。

冬柏山房には彼の歌の師である与謝野鉄幹、晶子夫妻や、吉井勇、有島生馬、萩原井泉水、川端康成、久米正夫、小杉天外、斉藤茂吉、石井柏亭、徳富蘇峰、高浜虚子、土屋文明、堀口大學、吉野秀雄、尾崎咢堂ら多くの文人、画家、政治家たちが四季折々に訪れ、詩歌や画に残しました。

 現地に旧宅は残っていませんが、その跡地の上の山頂には茶室と思しき別荘も残っており、昭和の初めに鎌倉に花開いたサロンの面影をいまに偲ぶことができます。

 なおここから遠からぬ場所にたつ鎌倉文学館では、来る4月19日まで「冬柏山房に集まった文人たち」展を開催中です。

  以上、同館の資料の拠ってノートさせていただきました。


  父親の仕出かした罪業の落とし前をつけに旅立つ二人なりけり 蝶人


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鎌倉十二所を歩く その7 朝夷奈切通の巻 [鎌倉ガイド]

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茫洋物見遊山記第174回&鎌倉ちょっと不思議な物語第336回


 毎度おなじみの散策路なり。

 鎌倉には7つの切通があるが、これは武蔵国久良岐郡と相模国鎌倉郡の境にあって、鎌倉と東京湾の六浦(むつら)を結ぶ鎌倉以前からある重要な峠道であり、六浦港は関東一円の生産物が集積される幕府の貴重な外港であった。

 鎌倉町青年団が建てた石碑には「土俗に朝夷奈三郎義秀一夜のうちに切抜けたるを以てその名ありと伝えられている」とあるが、まあこれは英雄伝説で、「仁治元年11月に議定があり、翌年4月に執権北条泰時がここを訪れて諸人群衆し土石を運んだ」とあるのが正しいのだろう。

 朝夷奈切通は産業道路のほかに軍事戦略の要衝として活用され、それは北条泰時の甥、金沢実時が六浦に別荘を持ったことで一層その重要度を強めていった。

 いずれにせよ将軍や執権、武将、日蓮上人などの宗教家をはじめ、無数の商人、百姓たちがさまざまな、しかし現代にも通じる思いを懐きながら、およそ700年にわたってこの切通を往来していたのであろう。

 朝夷奈峠を登ったところにある湿地では現在2か所でオタマジャクシが泳いでいる。

   月の沙漠で喉が乾けば君が鎖骨の甘露を汲まん 蝶人

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