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谷崎潤一郎著「谷崎潤一郎全集第17巻」を読んで [読書]

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照る日曇る日第828回


この巻に収められたのは「蘆刈」、「春琴抄」、「陰翳礼讃」を含めた「摂陽随筆」、単行本未収録の「夏菊」他計2編などであるが、なんといっても「蘆刈」が圧倒的に素晴らしい。

著者自身を思わせる主人公が、ある日ふと思いついて、後鳥羽上皇ゆかりの水無瀬離宮に散策に出かけるところからはじまる短編小説であるが、主人公が宵闇迫る巨椋池に月見に行こうと淀川の中州に向かう渡し船に乗った途端、物語は現代を遊離して遠い昔の夢幻能の世界に彷徨いはじめる。

そして私たちは月の下で邂逅した一人の男のモノローグを聴きながら、池の向こうに管弦の響きを実際に耳にし、絶世の美女「お遊さん」の蘭たけた姿態をこの目で眺め、彼女と彼女に恋した男の切ない恋の物語に、心ゆくまでひたることができるのである。

名作の誉れ高い「「春琴抄」も、日本人の歴史的美意識に鋭くメスを入れた「陰翳礼讃」も「蘆刈」の超絶技巧にくらぶれば、一籌を輸すといわざるをえないだろう。

ただ「陰翳礼讃」の中で、著者が、昔日の暗い光の中で演じる能役者の金銀刺繍、濃い緑や柿色の素襖、水干、狩衣、白い小袖のいで立ちが日本人特有の赤みかかった褐色の肌や唇の色によく似合い、能役者が美少年の場合は女を遥かに凌駕する蠱惑の対象になったと説き、よってもって昔の大名が寵童の容色に溺れたと断じるくだりには、まことに説得力があった。


いつの間にか僕の背中に少年が立つほんにお前はリトル・インディアン 蝶人

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保坂和志著「遠い触覚」を読んで [読書]

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照る日曇る日第827回

 この本をデビッド・リンチの映画「インランド・エンパイア」や「マルホランド・ドライブ」を見ながらの感想を綴ったエッセイだと云うたら、それはそうかもしれない。

 あるいは小島信夫やカフカやベケットやランボオや聖アウグスティヌス、カール・バルト、道元などを読みながら気づいたことどもの思索の軌跡と云うたら、それはそうかもしれない。

 あるいはまたこの本は著者が熱愛した歴代の忘れがたい飼猫の思い出の記と云うたら、それはそうかもしれない。

 あるいはこの本は現代日本語の表現に関する考察と実験の書と云うたら、そうかもしれない。

 あるいはこの本は、エッセイでも小説でもなく、とある映画やとある本や、日常の目の前に転がっているとある素材をネタにして、人世や芸術についてどこどこまでも考え続け、その無限に考える喜びに耽る或る種の快楽的哲学入門書かもしれない。

 著者がいうように、書くことと考えることとは、別である。ある本や映画をうわべで理解するだけでなくて、それを本当に自分のものにするためには、とりあえず自分が理解したことを(私がいつもやっているように)適当な文章にしてはならない。 

 それを行った途端に、私たちはその本や映画を生きることから遠ざかってしまうのである。


  一週間におよそ二十の歌を詠むそのほとんどが月並みなれど 蝶人

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「谷崎潤一郎全集第13巻」を読んで [読書]

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照る日曇る日第826回


「潤一郎犯罪小説集」(「日本におけるクリツプン事件」、「或る罪の動機」「黒白」)、「卍(まんじ」を中心に、芥川龍之介の思い出噺などを交えたコンピレーションである。

 谷崎の小説では、男は女への奉仕者であり、女たちはいきいきと自由奔放に生きていて、それを読んだ男たちに恍惚と不安の二つの感情を存分に味あわせてくれる。

「黒白」におけるドイツ人のような西洋風の謎の日本人娼婦は、谷崎を思わせる主人公の小説家を思うさま引きずり回し、その結果主人公は殺人犯人の濡れ衣を着せられ、官憲に拷問までされるに至るが、それでもおそらく彼女の面影をどこかで追い求めているのだろう。

妻の心と肉体を同性の美女に奪われた「卍」の亭主も哀れな男で、理知と常識を備えたインテリでありながら、愛する妻を自由放任にまかせたがゆえに、ずるずるべったりとのっぴきならぬ修羅場に巻き込まれ、とうとう命まで落としてしまう。

 哀れといえば哀れ、愚かといえば愚かだが、その人世最後のいっときに、自分の愛した二人の女と一緒に毒薬を飲んだ瞬間の自己放下の快感を思うと、羨ましいと思わないでもない。

 本巻では「卍」の標準語版初稿の前半と関西弁の本番改定版の2種を読むことができるが、後者のカタリがいかに小説の内容に合致しているかを読者は痛感することだろう。

 いずれにしても私たちは、いきなり希代のストーリーテラーに拉致され、その物語世界のめくるめく深淵と陶酔に身を任せるほかないのである。


「ケータイくらい充電しとけ」と言い放つそれでもお前は福祉の職員か 蝶人

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村上春樹著「職業としての小説家」を読んで  [読書]

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照る日曇る日第825回

 この本は著者が初めて書いた「自伝的なエッセイ」です。

 いちおう小説家を志望する若者たちへの小規模な座談というスタイルをとっていますが、その中には著者がどのようにして突然小説を書こうと思い立ったのか、「ど素人」の青年が、どうやって処女作以下の作品を35年にもわたって書きついでいくことができたのか、などの「創作の秘密」を、彼の半生共々率直に述べていて共感を呼びます。

 特に印象的なのは、彼の処女作「風の歌を聴け」が「何も書くことがないということを書くしかない」と決意し、「何も書くことがない」ということを武器にして書かれた、と語られていることですが、

 もっと興味深いのは国内でバッシングを受けたあと、バブルに踊る混濁の故国を投げ捨てて米国に渡り、一新人作家としてNYの文学界にデビューし、国際的作家、世界作家へと飛躍を遂げていくくだりで、

 これを読んでいると、「快男児、♪男一匹海を渡るー」というような浪花節が口をついて出てきて、なぜか胸がキュンと鳴ってしまいます。明治以来自作が本国で売れなくても海外で売れるように徒手空拳で努力した日本人作家が一人でもいたでしょうか。

 ところで、村上春樹の小説を嫌う人は、それを好む私のような人間と同じくらい多くて、その理由を尋ねると、「文体や内容が軽佻浮薄」というのが多いようです。これほど独創的な文章を書く作家は、ざらにはいないのにね。

 しかし本書で著者がいうように、小説、そして現実の世界においても、「木が沈み、石が浮く」という逆転現象がしばしば起こります。

 既成の純文学作家の重厚長大風の格調高い文体が、次々に生起する現実とパラダイムの転換にいつの間にかついていけなくなったり、「一般に軽いと見做されていた語り口が、時間の経過とともに無視できない重さを獲得する」ことも往々にしてある例を、私たちは著者や保坂和志などの小説のなかに見出すことができるでしょう。

 彼らの小説はセロニアス・モンクやグレン・グールドの音楽のような普遍的なオリジナリティに輝きながら、1個の重い石のように川の上を流れています。


  木が沈み石が浮きグレン・グールドのように叫ぶ日がやって来た 蝶人

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池澤夏樹編「河出版日本文学全集08」を読んで [読書]

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照る日曇る日第824回


「日本霊異記」と「発心記」を伊藤比呂美、「今昔物語」を福永武彦、「宇治拾遺物語」を町田康が現代日本語にしているが、伊藤と町田のが断然面白い。

 なるほど古典の翻訳は10年ごとにやり直せと言われるだけのことはあるなあ。

 町田のは彼のこれまでの小説以上の出来栄えで、もはや原作のていを留めないほどにポップでパンクで自由奔放に暴れまくった平成版「宇治拾遺物語」に大変身しているが、かといってオリジナルからかけ離れたものではないのは、そもそもこの作品がそういう桁違いのお噺がてんこ盛りになっているからだろう。

 滝口道則が妖術で陰茎を取られてしまう噺、博打の子が財産家の婿になった噺、伴大納言が応天門を燃やした噺、猿沢の池の龍が昇天する噺、清少納言の父、清原元輔が落馬するは噺、ナマズが父親と知りながら喰った息子の噺、孔子が嘲弄される噺などなど、どれをとっても千夜一夜物語のように面白く、クイクイと読ませてくれます。

 ところで「発心記」は鴨長明の作とされているようだが、どうも違うような気がする。あんな道学者風の阿弥陀への帰依を「方丈記」の作者が衷心から行っていたとは軽々に信じられないのである。


  外出の時は新しい肌着を身につけるいつどこで何があるか分からないので 蝶人

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岡井隆著「暮れてゆくバッハ」を読んで [読書]

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照る日曇る日第823回

 病気や手術をされたときいていたので大丈夫なにかなと案じていたのだが、いきなり

   天に向き直立をするぼくの樹よお休みなさいな 夜が来てゐる

 などという元気な声が聞こえてきたので、驚くやらびっくりするやら、(同じことか)。

 それにしても「暮れてゆくバッハ」とはいいタイトルだなあと感じ入っていたのだが、これは輯中の、

 ヨハン・セバスチャン・バッハの小川暮れゆきて水の響きの高まるころだ


 を読んだ書肆侃侃房の発行人田島安江さんがつけたというのだが、この人ただ者ではありませんな。

 それはともかくこの本には著者の鼠径ヘルニア手術の経緯やら、

 小さくても手術の前は不安です それをあなたはなだめてくれた

 退院した翌日に逝った松本健一への挽歌や、

 いづれにせよあなたは永遠に去つたのだ 春花の傍にぼくは生きてる

 木下杢太郎の「百花譜」を真似たという著者の手書きの花と葉と実の水彩画のスケッチが挿入されていて、そこに添えられたやはり手描きの短歌やメモが賛のような微妙な付け合わせになっていて、型破りで楽しい。

 著者はこれまでも短歌や俳句や詩を並べた書物をつくっていたが、今度はそこに味のある絵が加わり、ますます自由闊達融通無碍でさながら現代の仙人のごとき自在の境地を深めているようだ。

 
   いかにして二十尺の糸を張り渡す私が蜘蛛でも出来るだろうか 蝶人

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井上ひさし著「井上ひさし短編中編小説集成第12巻」を読んで [読書]


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照る日曇る日第822回

 シリーズの掉尾を飾るのは「言語小説集」と「東慶寺花だより」「イソップ株式会社」の3篇であるが、なかでは作者が晩年を過ごした鎌倉を舞台にした歴史物の「東慶寺花だより」が思いがけない贈りものか。

 江戸時代の縁切り寺として知られるこの尼寺とそのすぐそばのはたごを舞台に、次々に駆け込む女性を主人公とするあれやこれやのエピソードを連ねたものであるが、「イソップ株式会社」ともどもどことなく筆力の衰えのような気配が漂うのは、それらが作者の晩年近くの執筆によるものなのだろうか。

 岩波書店から刊行された短編中編小説をすべて読み終えての感想は、やはり作者の本領は小説よりも舞台にある、という月並みなもので、これから私はまだ残された時間があれば少しずつ彼の脚本を読み返してみたいと思っている。


   お土産はすぐき八橋五色豆何回行っても京都旅行は  蝶人

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河出版「日本文学全集第21巻」を読んで [読書]

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照る日曇る日第821回

 最近の河出書房新社の文芸物は次々に新手の企画を打ち出していて、老舗の講談社の低迷ぶりと好対照をなしているようだ。

 池澤夏樹の個人編集による日本文学全集もその主力のひとつで、本21巻では、かつて朝日と読売のベトナム特派員であった日野啓三と開高健の2人の行動派作家に焦点を当て、そのベトナム戦争ものを張り合わせるという意匠が興味深い。

 開高では、彼の代表作ともいうべき「輝ける闇」が掲載されているが、これは彼の実際のバトナム現地体験と命懸けの戦場体験に裏打ちされながらも、単なるドキュメンタリー作品の域を遥かに超えた臨場感と奥行のある見事な戦争文学として成立しており、かのマルローや堀田善衛ほどではないにしても、かなり読み応えがある。

 いっぽう日野の「“ベトコン”とは何か」は、小説ではなくベトナム特派員としての証言記録であるが、当時の南北対立や南政府の腐敗と堕落の構造を明快に浮き彫りにしていて、著者の非凡な観察と分析の繊鋭を雄弁に物語っている。

 けれども日野のその特性をより鮮やかに示しているのは、1968年に集英社から出版された「Living Zero」の主要部からの抜粋で、その凡人の及ばざる懐の深いトピックスの立て方もさることながら、そこで著者が駆使しているナイフのように乾いた鋭利な日本語は、青竜刀のように鈍重で大雑把な開高の文体と著しい対照をなしている。

   小池選の歌壇あるゆえ購読する読者もあると知れよ読売  蝶人

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谷崎潤一郎著「谷崎潤一郎全集第19巻」を読んで [読書]

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照る日曇る日第820回

 本卷の大半はすでに詩による感想文をしたためた「細雪」なので、ここでは述べないが、巻末には源氏物語の翻訳に関するコメントや泉鏡花、北原白秋、今東光、旧友の左團次に関する発言などアトランダムな「雑纂」が収められている。

 源氏物語については冒頭の源氏と藤壺の姦淫に関する個所を「時節柄」削除したことを断ったりしているのだが、著者の代表作である「細雪」もこのような官憲の検閲に対する配慮のために大きな影響を蒙ったことは、民衆作家の表現の自由という点でも、谷崎文学の十全な発露という点でも好ましからざる結果を生んだと言えるだろう。

 しかしながら昭和17年1942年3月に「文藝」で発表された「シンガポール陥落に際して」という小文を読んでみると、あの大谷崎が書いたとは到底思えない愛国的駄文が並んでいて驚かされる。

 曰く、「皇軍の征くところは常に公明正大であって、欧州人の侵略史に見るが如き不正残虐の事蹟を留めないのは真に聖戦の名に負かずと云ってよい」

 曰く、「我が国に依る大東亜の解放と云うことは悠久の時代から約束された日本国の進路であって、南洋はわれわれの民族学的故郷であり、仏印、泰、フィリピン、マレイ、ビルマ、蘭印等々の住民はいつかわれわれの帰ってくる日を待っている骨肉の同胞であると云えよう」

 反戦思想の持ち主など存在することすら許されなかったこの時代にあって、ほとんどすべての作家が鬼畜米英並みの後進国侵略の後押しをした訳だが、せめて谷崎だけは永井荷風をみならって、このような日帝・軍部の提灯持ちのような空虚な言辞を弄してほしくなかったと思うのだが後の祭り。


勝ち戦さにインテリゲンちゃんのぼせ上がる玩具を貰いし子供のごとく 蝶人

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井上ひさし著「井上ひさし短編中編小説集成第11巻」を読んで [読書]

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照る日曇る日第819回 


本卷に収録されているのは、「ナイン」「グロウブ号の冒険」そして単行本未収録だった「嘘」「親銭子銭」「空席」「「質草」「紙の家」であるが、特に感銘を受けた作品はなかった。

 強いて挙げれば著者が離婚前後の事情を素材にデッチ上げた「紙の家」だろうか。生涯いわゆる「私小説」を書かなかった著者にしては苦しすぎた私生活のあれやこれやが垣間見られる作品であるが、妻に間男されて去られてもそれらの顛末を面白おかしく小説に書かざるをえない作家とはなんと業の深い人間であろうか。

 「グロウブ号の冒険」はカリブ海に著者のユートピアを構想しようとした海洋冒険ドラマであるが、延々格闘を続けた挙句に未完に終わっているのが残念である。


  世のために人のために研究するまだこの国にこんな人がいたんだ 蝶人

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